【特集連載】「グンマ遺産 −いま残したい、群馬の仕事と人と店−」Vol.01 ネオン加工業 コーエーネオン

ネオンサインは、鮮やかな発色とおしゃれなデザインが魅力の照明。熱を加えながら特定の形状に曲げたガラス管の中に、ガスと水銀を封入しています。多様な色は、中に入れるネオンガス、アルゴンガスなどの組み合わせによって表現しているそう。ガラス管に空気を吹き込みながら作業するため、熟練の技が求められる仕事です。今回の「グンマ遺産 Vol.01」では、ネオン加工業を生業にして50年、「コーエーネオン」の秋山廣さんに話を伺います。

なぜネオンサインを作る仕事をしようと思ったのですか?
ネオンを使った看板を見て、どのようにできているか興味があったので、18歳の時に東京にあるネオンの工場を見に行って。見に行った工場がたまたま人手不足で「やる気があるならやってみないか?」と誘われたことを機に、そのまま東京の工場で働き始めました。

独立するまでの経緯を教えてください。
ガラスを扱う仕事なので、見習いの頃はしょっちゅう失敗していましたね。すぐに曲げの作業をしてみたいと思っても、段階を踏まなければいけない。最初は「極つけ」という、まっすぐのネオン管を曲げる技術を習得するまでに5年はかかりました。作りたい看板によってネオン管の角度が違いますよね? だからどんな角度にも曲げられるように、極つけのやり方を覚えるだけでも大変。それを何でもこなせるようになってから、やっと曲げの作業に入ります。曲げの作業を2年かけて習得して、独立しました。自分の場合は見習いから独立まで7年かかりましたが、普通は10年かかると思います。

修行が終わってから群馬で独立したのですか?
東京の恵比寿で7年修行したのち、25歳の時に伊勢崎で独立しました。伊勢崎で3年、別の場所で5年ほど営業したのですが、従業員も増えて作業場が手狭になってきたので、昭和62年にいまの場所に移り、ずっと同じ場所で営業しています。

当時はどのような仕事が多かったのでしょうか?
群馬県内のお店から受注することが多かったですね。群馬県内に昔からあるネオンの看板は概ねうちで作っていました。当時はパチンコ屋さんが多かったから受注もたくさんあって、すごく忙しかったですね。

50年以上仕事を続けてきて、いかがですか?
若い頃は自分が作ったネオンが点灯しているところを見るのがうれしかったです。でも、最近は趣味の延長ですよ。いまはネオンもLEDに移行してしまっていて依頼も少ないですからね。

この仕事を後世に残そうと思いますか?
業界の見通しがいいなら勧めるけど、いまは需要も少ないから、この仕事で食べていけるほど稼いでいくのは難しいと思います。自分はまだまだ手が動くから続けますけど、うちが辞めたら修理を頼めるところがなくなっちゃうから、ネオン看板を出すのを辞めると言っている依頼者は多いですね。群馬県内でもマイスター(ガラス加工師)はおそらく自分ひとり。全国にもそんなにいない仕事ではあると思います。

コーエーネオンの秋山廣さん

コーエーネオン
群馬県佐波郡玉村町上新田

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